みんないつかは死ぬとわかっているのに

みんないつかは死ぬと分かっているのに、そのことを普段から自覚する人はいない。

いつかは死ぬ。しかし「いつ」死ぬかはわからない。

もし「いつ」死ぬのかわかっていれば、

人は大きく二つに分類されるのではないか。

一つは絶望する人。

もう一つは残された人生を大事に使おうと思う人。

 

「春になったら」というテレビドラマがある。

末期がんを抱える父親とその娘の二人が主人公の物語だ。

末期がんの父親は病床で死を迎えるのではなく、

緩和ケアを選択した。いろいろな治療をして病床で苦しんで死ぬより、

死ぬ直前まで元気で、家族と過ごしたいと考えるのだ。

そして「死ぬまでにやることリスト」を作る。

一つ一つやり遂げるたびに、リストを消していく。

残された人生を後悔しないように

時間を大切に

家族を大切に

自分を大切に

残された限りある時間を過ごしていく。

ドラマだから、毎回毎回が切なさを感じさせる。

 

ふと考えた。

「いつ」死ぬかわかっているから「死ぬまでにやることリスト」を作るのだ。

でも「いつ」死ぬかはわからないけれど、人は必ず「いつか」は死ぬ。

最終的に死ぬという事実だけは変わらないのだ。

ならば、

「いつ」死ぬかわからなくても

「死ぬまでにやることリスト」を作って、

それをやり遂げる人生を送るのはどうか、と思った。

死ぬまでに〇〇〇をすれば良かった、ときっと後悔するくらいなら、

そう思ったことを今すぐやったらいいではないか。

 

そうやって命を大事にする生き方をするからこそ、

「諸人の死は永遠の滅びならず世の旅終えて還る魂」

という、神さまの言葉を、素直に受け入れられるのではないか。

 

形式と内容

宗教の多くは「儀式」を行う。そしてそれは、単に合掌するとか、お経を唱えるとか、火を灯す、といったものではなく、多くは、非常に厳密な形式を持っている。

合掌のしかた、お経の唱え方、火の灯し方、祈りの作法などが複雑に組み合わされて儀式が行われる。

しかし一方で、たとえば日本のお葬式のように、なかば形式的になって心がこもっていない儀式も少なくない。

ではなぜ儀式がそれほどまでに形式にこだわっているのか?あるいはそれが故に形式的に陥ってしまって心が抜けてしまっていたりするのはなぜなのか?

多くの宗教は、型通りの動作を繰り返すことで、それが心に反映すると考えられている。実際その通りでもある。「修行」というのはまさにそうだ。型をもたない修行はない。そして型通りに修行するから心も練り鍛えられると考えられている。

大和山大神さまは次のようの教えている。

「形式は内容をもつことによりて貴きを知り、形式のためにその形式をなず愚かしさは避くべし。」

形式を軽視しているのではない。形式も大切だと教える。その一方でそれ以上に内容が大切だと教える。本当に心がこもった内容(祈り)ならば、形だけの儀式ではなく、真に神さまに心が通う儀式になるのだと教えている。

数多く訪うべし

高校3年の冬、そろそろ高校卒業を控えたある夜のこと。

いつものように寮の部屋で就寝前の礼拝を済ませ、その後、「これから高校を卒業したらどのような心構えで行けばよいでしょうか?」と神さまに伺った。具体的には、そのように念じて、教のしづくをパラパラとめくり、止まったところに神さまの思いが示されてあると信じて、そのご神諭を拝読するのだった。

そのご神諭は

「数多く訪うべし、教えの門は。数多く見るべし、教えの文は。数多く聞くべし、教えの語は。」

というご神諭だった。

そしてつぎのように続く。

「聞くは易く、行うは難きものなればこそ、千たび教えの門に足はこびて、千たび教えの文を手に取り、千たびの語に耳傾けて、その千たびの中より得て行わるるは、その一つの半ばもあらばよし。」

つまり、何度も何度も、教聞の場に足を運び、教えの話を聞き、教えの本を読んだとしても、なかなか習得てきるものではない、その中の一つの半分でも実行できれば、それでいいのだ、と教えて下さるのである。

何と現実的な教えか。その昔神さまが示したものとは思えない。とかく教えは理想が示されているものだと思うが、何度教えを学んでも簡単に習得できるものではないと教えているのだ。

私はその言葉を素直に受け、大学に進学して上京した際には、埼玉県の川口支部に通うことにした。

そして、そこで実に多くの人々と出会い、学び、そして今がある。当時お世話になった方々とは今でも交流があるし、何かの用事で上京するときには、必ずと言っていいほど川口支部に寄る。まるで第二の故郷なのだ。

神さまはそういう何十年も先のことまで見越して、たった一度の祈りで、私にこの教えを示してくださった。

確かに不治の病が治ったという類の奇跡的な信仰体験ではないかもしれないが、私はこのような小さな信仰体験を大切にしたいと思っている。

大和山大神さまは呼べば答える神であると教えにある。本当にそうだと実感することができるのである。

 

他に尽くすこと

「感謝を知るもの、すなわち奉仕なかるべからず。奉仕は天地の恩寵を受け取るものの、それに報ゆる必然の行いなり。」

「尽くす喜び。その喜びは、喜びの中にて最も高き喜びなるを知れるものは幸いなり。それぞまさに神の心なり。」

 

もし、この心をもって、誰かに尽くしたらどうなるだろう。

夫は妻に尽くす。

妻は夫に尽くす。

親は子に尽くす。

子は親に尽くす。

先生は生徒に尽くす。

生徒は先生に尽くす。

店主は客に尽くす。

経営者は従業員に尽くす。

従業員は経営者に尽くす。

会社に尽くす。

地域社会に尽くす。

国に尽くす。

世界に尽くす。

どういう立場にあれ、周囲に尽くしていく行動。そのことによって、

人間関係は改善されて良い方向に進んで行き、

仕事は上手く循環し、そこから得られる報酬もまた増えよう。

そして、自らは何も求めなくても、そして望んでいなくても、最後には多くのものを得られるは、尽くした人間の方ではないか。

いや、それ以前に、尽くす人は、尽くすことじたいに喜びを感じているので、既に喜びに満ち溢れ、既に幸せなのである。

 

世の中が尽くす人達で溢れ、喜びが循環していけば、必ず世界は平和になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感謝の反対語

感謝の反対語は?

私が高校生のころ、校長先生が朝礼でよくお話しされていたフレーズが、今でも忘れられない。

それは「何でも当たり前だと思っちゃいかんよ」という言葉。

いろいろな方々に支えられながら生きている。生きているだけで、感謝なのである。

周りの方々にしていただいていることは当たり前ではない、と教えていただいた。

つまり、感謝の反対語は「当たり前と思う気持ち」だ。

さて、もう一つの考え方がある。

私たちは感謝をしたら、その気持ちに報いなければならないという気持ちになる。つまり感謝の反対語は「報い」であるといえよう。「報い」とはお返しする行動、誰かに、何かに貢献すること、尽くすこと、奉仕とも言い換えることができる。

だから「感謝」の反対語は、2つあるのだ。

でも、「当たり前」という気持ちと「貢献する」という行動を並べると、あることに気づく。それは「貢献すること」=「当たり前」という関係だ。

誰かになにかをしてもらうことは当たり前ではない。だけど、誰かに何かをすることは当たり前なのだ。

さらに大きな視点から、私たちが生きていられることは当たり前ではない。だけど、私たちを生かしている存在があるとするならば、その見えざる存在に奉仕するのは当たり前なのだ。

 

 

 

岩に現れた般若

忘れもしない。1996年2月10日。

北海道の余市に近い豊浜トンネルで大規模な岩石の崩落事故があった。その際、その下を通っていたバスが岩の下敷きになり、20人の犠牲者が出た。大惨事だった。

トンネルの中の犠牲者を救うために、岩盤にダイナマイトを仕掛け発破を試みた。第2回目の発破のあと、岩石の形がまるで鬼か般若のような顔に見えた。それは私だけではなく多くの人が目撃して、今もネットにあるくらいだ。

私はあまりに不思議で、それをご神歌でお伺いした。その時のご神歌が、

矛取りて天馬駆け巡らす時ぞ秋蹄無尽に踏みきし進まん

というものだった。

まるで神代の聖戦を意味するようなご神歌に思われ、再度、ご神歌でのお伺いを試みた。すると、またしても全く同じご神歌ではないか。

時は10年以上経ったころだった。

我が家では家族LINEでご神歌を配信している。妻が子供たちを思ってのことだ。

ある日のご神歌が、上記のものだった。痛烈な思い出があるご神歌なので、その時の思い出をLINEで伝えた。そしてたしか今頃だったよなと思い、ネットで調べてみたら驚愕!ちょうどその日、事故があった日だったのだ。

そして最後のエピソード。

ある冬の日、朝方のこと。北海道のトンネル崩落事故は確か今頃だよなとふと思った。気になってスマホで調べてみた。そしたら、事故があったのは1996年の2月10日、ちょうど28年前の今日だつたのである。