数多く訪うべし

高校3年の冬、そろそろ高校卒業を控えたある夜のこと。

いつものように寮の部屋で就寝前の礼拝を済ませ、その後、「これから高校を卒業したらどのような心構えで行けばよいでしょうか?」と神さまに伺った。具体的には、そのように念じて、教のしづくをパラパラとめくり、止まったところに神さまの思いが示されてあると信じて、そのご神諭を拝読するのだった。

そのご神諭は

「数多く訪うべし、教えの門は。数多く見るべし、教えの文は。数多く聞くべし、教えの語は。」

というご神諭だった。

そしてつぎのように続く。

「聞くは易く、行うは難きものなればこそ、千たび教えの門に足はこびて、千たび教えの文を手に取り、千たびの語に耳傾けて、その千たびの中より得て行わるるは、その一つの半ばもあらばよし。」

つまり、何度も何度も、教聞の場に足を運び、教えの話を聞き、教えの本を読んだとしても、なかなか習得てきるものではない、その中の一つの半分でも実行できれば、それでいいのだ、と教えて下さるのである。

何と現実的な教えか。その昔神さまが示したものとは思えない。とかく教えは理想が示されているものだと思うが、何度教えを学んでも簡単に習得できるものではないと教えているのだ。

私はその言葉を素直に受け、大学に進学して上京した際には、埼玉県の川口支部に通うことにした。

そして、そこで実に多くの人々と出会い、学び、そして今がある。当時お世話になった方々とは今でも交流があるし、何かの用事で上京するときには、必ずと言っていいほど川口支部に寄る。まるで第二の故郷なのだ。

神さまはそういう何十年も先のことまで見越して、たった一度の祈りで、私にこの教えを示してくださった。

確かに不治の病が治ったという類の奇跡的な信仰体験ではないかもしれないが、私はこのような小さな信仰体験を大切にしたいと思っている。

大和山大神さまは呼べば答える神であると教えにある。本当にそうだと実感することができるのである。